■界隈寫眞館|きさらづの界隈をゆく2 木更津港から花街跡へ

界隈寫眞
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木更津港と花街、かつての賑わいや艶かしさは何処へ

遠い記憶のなかに仕舞われた港町

 木更津港のある場所は、かつて木更津浦といわれていたそうだ。江戸時代は、江戸に生活物資を運ぶ拠点となっていた。そして、明治期に木更津港が築かれてからは、東京湾の海上交通の拠点として、房総有数の商業地として栄えたといわれる。そして、そこには豊かな港町文化が生まれていた。

 ところが現在、木更津港にはわずかに残滓が残るだけである。かつて栄えた港町の風情はどこにもない。賑わいを見せたと思われる、港近くの旅館や料亭は蔦の絡まる廃墟となって久しく、時の記憶を閉じ込めてひっそりと佇んでいる。

 港には、情緒や叙情性が感じられるものだが、それがいまの木更津港にはない。個人差はあるが、概ね多くの人がそう感じるはずだ。なぜなら、木更津港に面している道路が、産業道路となり殺伐な趣を呈しているからだ。

 その道路を通行するクルマの数は半端なく多いが、木更津中心街に向かうクルマはほとんどない。これもまた、ストロー現象であるに違いない。木更津港すぐ近くの交差点を境にしてクルマの数も一気に少なくなる。

 木更津港のかつての役割は、新たに埋め立てた場所に移っているようだ。したがって、現在の木更津港には、しばし休息する運搬船や、クルーザーなどが停泊しているだけで、その数もけっして多くはない。

 いまの木更津港は、遠い記憶のなかに仕舞われた忘却の港ということができる。

 その証拠に、港には人の姿がほとんど見られない。街に活気をもたらすのは、クルマの数ではない、人の数である。人が集まらない港は、単なる防波堤としての意味しかない。それが木更津港のいまの姿である。

港町文化は黄昏て


引用:http://blog.goo.ne.jp/erotomania_2006/e/d439b19f885325c64087e87bf9f4cde2

 港町には、歓楽街が付きものだ。そして、そこには一種独特の港町文化が育まれる。木更津港が海上交通の拠点だった頃には、歓楽街が発展し賑わいを見せていたそうだ。現存する歓楽街の町並みはすでにないが、わずかな残滓は残っている。

 仲片町といわれる旧地名の場所が、かつての歓楽街の中心だったそうだ。そこには、遊郭もあったそうだ。当然、その周りには飲食店も数多く点在していた。

 ちなみに、遊郭があった場所は、人参湯(銭湯・建物現存)と木更津東映(解体されて更地)のあった界隈が、五軒町と呼ばれた遊廓だったといわれる。

 残念ながら、いまでは遊郭や花街の名残りを示すような面影は微塵もない。ただ、そこにはくすんで地味な風景が広がっているだけだ。

 ただし、その場に佇み、想像力を逞しくして遠い日に想いを馳せれば、微かに香る艶かしい匂いがしてくるような、そんな気がしてくる。

きさらづの界隈をゆく2 木更津港から花街跡へ

港町は遠い日の彼方へ


中の島公園から市街景観を見る

 木更津港を訪れた日は、青い空が広がる秋晴れだった。木更津港の入口にある交差点では多くのクルマが行き交っていた。しかし、そこから中心街にいくクルマは、ほんのわずかしかなかった。多くのクルマが海沿いの道を通っていく。

 広くはない道路をダンプやトレーラーなど業務用車両が多く通り、さながら産業道路といっても過言ではなかった。道路事情はなんとも殺伐としているが、木更津港に一歩足を踏み入れると、当然であるがそこには海が広がっていた。

 港は意外と見晴らしも良くて、気持ちが良かった。殺伐な道路側を見なかったことにすれば、なお一層心地いい気持ちが広がってくるようだった。

 木更津港には、あまり船舶が停泊していない。黒くて汚い運搬船が数艘停泊していた。あとは白いクルーザーも何艘か停泊していたが、動いているかは定かではなかった。遠くに見える岸壁にもやはり黒い運搬船が数艘見えた。

 木更津港の入口から斜め前方に目を向けると、港と小島のあいだに赤い橋が架かっている。それが、中の島大橋である。木更津の数少ない名所のひとつだ。

 いまの木更津港を、一言でいえば殺風景としか言いようがない。しかし、それはそれで悪くはないと感じた。もちろん良いともいえないが…。

 ひと昔まえ、カーフェリーがこの港から横浜と川崎に出航していた。フェリーが港を出入りする光景は、どこか叙情性を感じさせるものがあったが、しかし、それもいまではない。アクアライン開通と前後して廃止されてしまった。

 木更津港は、かつてとはだいぶ様相が変わってしまったが、個人的には人があまりいない殺風景な景色が案外気に入った。

 横浜などの賑わいとは真逆にあるが、かえってそれがいいかもしれないと感じた。なぜなら人が多くいないのは、ある意味では贅沢だからだ。港に佇むと海も空も独り占めという感覚が味わえるからに他ならない。

木更津港をゆく


木更津港 交差点辺り
椰子の木が整然と並んでいるが、椰子と木更津がどう結びつくのか判らない。その雰囲気は、サンタモニカに比べようもないのは言うまでもない。岸壁のペイント(学生ボランティアが描いた)が、ロマンチックな気分を損なっている。


停泊中のクルーザー
かつての漁船の姿は消えて、クルーザーが数艘停泊している。


黒くて汚い運搬船
なにかの資材を運ぶ運搬船のようだ。汚い船だが、見ているとなんかロマンチックな気分がしてくる。それが海と船が醸し出す雰囲気なのだろう。


ドック(築造・修理施設)の跡
残骸が放置された船舶のドック跡と思われる。


ドック(築造・修理施設)の跡
中の島大橋近くにある廃墟と化した船舶のドック跡。


中の島大橋
この橋は、歩行者専用の橋である。しかし、作業車両は別のようであり、この日は公園の整備作業をした車両が橋を渡っていた。


中の島大橋 頂上付近
蒼い空と白い雲が辺り一面に広がっていた。ちょっと怖いがとても気持ちがよかった。


中の島大橋 頂上からの景色
中の島大橋上からの景色は、思っていたより遥かに絶景だった。


中の島大橋上から見た木更津の景観
木更津の景観はさておき、蒼い空に白い雲が素晴らしい趣を見せていた。


中の島大橋上から見た木更津の景観
遠くから見る木更津市内は、とても活気があるように感じられる、がしかし、その近くに行ってみれば、あにはからんや…。


中の島公園
赤い橋を渡るとそこは中の島公園である。そこには何もないが、それがかえって気持ちがいいところだ。中の島大橋の形状は、意外と美しい。


中の島公園の植栽
枝振りが格好いい植栽、これは写真家の腕がいいと言うべきか。


中の島公園
繰り返すが、何もないところだ。しかし、それが気持ちがいい。

花街跡をゆく

 木更津港を散策したあと、花街跡へと向かった。ここが花街跡とは、どこにも案内表記されてはいない。だから、文献を頼りにだいたいの場所を想定していった。旧地名で仲片町といわれた辺りが、花街や歓楽街だったと文献に記されていた。

 はたして花街跡の残滓は見つかるか否か、それが気にかかったが、あとは見てのお楽しみということで、以下の写真をご覧ください。


蔦に絡まれた料理屋みほし
「みほし」という地元で有名だった料理屋。けっこう大きなビルだ。全盛期は宴会などの客で賑わいを見せたと思われるが、いつからこの状態かは不明だ。


みほしと八幡屋旅館
「みほし」の向かいには、割烹旅館「八幡屋」がある。木更津港が隆盛の頃はともに賑わいを見せたに違いない。いまでは人通りもなく時が静かに流れていた。


人参湯(銭湯)
老舗の銭湯。この人参湯の界隈にかつて遊郭があったそうだ。


人参湯(銭湯)
昭和7年創業の老舗銭湯だそうだ。現存建物は昭和27年に建てられた。千鳥破風の屋根がいまでも建物の風格を示している。なお、いまは営業はしていない。隣の敷地(駐車場)には、かつて東映の映画館があった。


なんとなくレトロな建物
切妻の三角屋根と小庇のモダンなアールが絶妙なバランスを見せている。元は床屋か美容室と思われる。このようなレトロな建物は他にもいくつか見られた。


なんとなくレトロな建物


栄楽旅館
人参湯の斜め向かい側にある旅館。安藤忠男のコンクリ打ちっ放し建築を思わせる建物の裏側である。表側はこのあとの「おまけ/花街跡界隈」に掲載します。


人参湯のある南片町通り


過ぎた時代を感じさせる界隈の建物たち

ご覧のように、旧花街を感じさせるものはひとつも認識できませんでした。

次回、「きさらづの界隈をゆく3/仲片町あたりのレトロ建築」につづく

全撮影:村田賢比古
写真の著作権は、村田氏に帰属します。
村田賢比古の写真サイト:Kai-Wai散策

スクラップ&ビルドは、時代遅れの過去の産物

 1957年にノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュは、その授賞式で次のように語っている。

「どの世代も、自分たちは世界をつくり直すことに身をささげていると信じているだろう。だが私の世代は、自分たちがつくり直すことはないと知っている。私の世代に課せられた任務はもっと大きなものだ。それは世界の解体を防ぐことにある」

 また、日本文化の研究者であるアレックス・カーも次のように語っている。

なんでもない風景を守ることの難しさ

「ヨーロッパで古い町並みがそのまま残っているのは、人々が観光客向けにそうしているのではない。まず、(古いものを尊重する)「態度」があって、古い建築を保持するための条例が作られている」

「日本には最新の技術を見せたいという、いわば高度経済成長期の価値観がまだなおあります。できるだけ大きく、人をあっと言わせる技術で作るべきだという価値観です」

「想像にまかせて巨大でグロテスクな建築物を造るのはたやすいこと、本当に守らねばならないものは身近にある。なんでもない景観なのではないか」

 欧米の価値観がすべて正しいとはけっして思わないが、こと景観に対する考え方では、日本人はとても鈍感であると言わざるをえない。

 パリのポンヌフ橋やアレクサンドル3世橋 、ロンドンのロンドン橋などは現在でも時をこえて美しく輝いている。一方、日本では日本橋の上に高速道路を通してもなんら恥ずかしいとも思っていない。

 経済的合理性のためなら、例え二重橋の上でも高速道路を通しかねない。それが、日本の歴史認識や景観に対する価値観を代表している。

 昨今、好景気が喧伝されているが、その一方で地方は相変わらず疲弊が止まらない。その原因は何かといえば、地方の都市計画が根本から間違っていたからではないか、と思われて仕方がない。

 都会を模倣して、便利で快適な環境を整備する目的で、道路やコンクリ箱物が大量に造られていった。しかし、地方はけっして東京にはなれなかった。

 道路は整備されて、コンクリ箱物も多く建てた、そして便利なモールも誘致した。歴史性、土地の個性など関係なく、スクラップ&ビルドされた地方は、どこに行ってもおなじような景観となり、いわば画一化されてしまった。

 モータリゼーションの進化は、地方に利便性をもたらしたが、都会の利便性とは種類が違っていた。都会では公共交通が発達して、地方のそれとは方向性が異なっていた。都会の限られた空間ではクルマはもう限界に達していたからだ。

 地方のクルマ社会は、自動車会社のためにあると言っても過言ではない。

 とにかく、そんな画一化された地方に魅力はあるだろうか、それは言うまでもないが。したがって、若者がなんだかんだの末に、東京や大阪などの大都会に出ていくのは、ある意味では仕方がないといえる。

 地方は、失ったものの大きさにいまさら気づいても、もはや手遅れの状況かもしれない。高度経済成長の夢よもう一度ではなく、いまこそ価値観の転換を図り、地方特有の歴史性や文化を取り戻すことを優先すべきではないか。

 翻って、それが画一的でない地方の街をつくりだす第一歩となるはずだ。

 地方の多くは便利と引き換えに地方特有の個性や歴史性を失ってしまった。それが何を意味していたかを、いま感じているはずと思いたいが…。

 しかし、相変わらずスクラップ&ビルドは地方を覆っている。

おまけ/花街跡の界隈をゆく


栄楽旅館
とてもレトロモダンな建物である。いつごろ建てられたものだろうか。高度経済成長期の昭和30年代には、きっと賑わっていたに違いない。


金沢美容室(現役)
看板建築がいまに残された希少な建物である。現在も営業はしているようだ。


切妻屋根とモダンが融合した建物


ぽつんと残された古い建物
南片町通りと富士見通りの交差点近くにある古い建物、元は料理家ではないか。


木更津温泉ホテルの跡地
かつては木更津の代表的なホテルであったが、ご覧のような有様である。


仲片町の行灯
この行灯のような標識が、この辺りには多く設置されている。

撮影:cragycloud

次回は、仲片町辺りのレトロ建築に焦点を当てて紹介していきます!

参考:「ぶらり木更津まち歩き」マップPDFは以下からダウンロードできます。
木更津市公式ホームページ

かいわい―日本の都心空間
「かいわい」は自然発生的で多元的なものであるが、それが、都市の魅力の核ではないのか。
かいわい―日本の都心空間 (SD選書 126)

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